幸せになれない理由とは?水木しげるが描くサラリーマンの実態

サラリーマンの現状を妖怪に例えることで、私たちが抱える無気力感や孤独感を浮き彫りにしています。多くの人が機械のように働き続ける中で、幸せとは何かを見失ってしまうことが指摘されています。水木氏の言葉は、現代の労働環境への鋭い批評であり、我々もこの現実を直視する必要があるのではないでしょうか。


2025年2月に、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト5をお送りします。キャリア部門の第5位は――。 ▼第1位 「毎日シャワー、洗顔、歯磨き、洗濯した服を着る」それでも清潔感がない人が手入れを怠っている体の部位
▼第2位 怒鳴る人に「申し訳ございません」は逆効果…レジ前でゴネる迷惑クレーマーが瞬時に退散した「スタッフの一言」
▼第3位 「英会話レッスンにお金を払う」は時代遅れ…スマホで24時間、無料でできる「令和の英語勉強法」
▼第4位 「青学→日本生命で引退はもったいない」という人が知らない…箱根駅伝エリートが実業団で落ちぶれの死屍累々
▼第5位 なぜ働いても働いても幸せになれないのか…漫画家・水木しげるが「サラリーマンの大半は妖怪だ」と言ったワケ
偉人と呼ばれる人たちは、山あり谷ありの人生をどのように生き延びたのか。ライターの栗下直也さんは「例えば、漫画家の水木しげるさんは職を転々としてもまったく気にしなかった。働くことはあくまでも幸福になるための手段でしかないことがとわかっていたからだ」という――。(第2回) ※本稿は、栗下直也『偉人の生き延び方』(左右社)の一部を再編集したものです。

■ラクして、楽しく暮らしたい男が選んだ副業

副業の王道といえば不動産ビジネスだろう。物件選びさえ間違わなければ、サイドビジネスどころか働かずに利回りで暮らせる。不動産投資は、そんな夢を多くの人に抱かせる。『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家の水木しげるもその一人だ。 有名人が有り余る資産を運用する一環で不動産に投資するのはよくあるケースだが、水木の場合は事情が少し異なる。ラクして、楽しく暮らしたい。働かないでごろ寝して暮らしたい。そんな一念で手元資金が決して潤沢でない、まだ何者でもない時代にアパート経営に乗り出している。 水木は大正11年1922年)、大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。昭和12年1937年)に高等小学校を卒業し、大阪の印刷会社に住み込みで就職するも、嫌いなことができない性格のため、失敗の連続だった。2社続けてクビになり、心配した両親が手に職をつけさせようと園芸学校を受験させるも定員50人で受験者が五一人の入試に落ちる。ぶらぶらしているわけにもいかず、大阪の夜間中学に編入する。 太平洋戦争中の昭和18年1943年)に軍隊に召集され、南方戦線で片腕を失い、重傷を負いながらも九死に一生を得る。内地に帰還後、水木の「副業」人生が始まる。水木は失った左腕の本格手術のため相模原病院(旧陸軍病院)に入院するが、その時にたまたま新聞広告を見て、武蔵野美術学校(現武蔵野美大)を受験する。

■学生→ヤミ米販売→魚屋

本人曰く、奇跡的に合格し、入学する。目指すは絵描き。だが、ひたすら絵を描いていればいい身分ではない。誰もが生きるのに必死な時代だ。日々の糧を得る必要があった。 まず手を出したのが、ヤミ米の買い出しだ。千葉の農家で米を買い付けて東京で売ると、1回500円ほど儲かった。この頃(昭和21年)の一世帯当たりの消費支出は平均で月約2000円程度だった。効率の良い稼ぎ方だったことがうかがえるが、列車のなかで財布をすられたのをきっかけにヤミ屋をやめる。 そうした中、ある日、病院仲間に「新生会」という謎の会合に誘われる。行ってみると、それは傷痍軍人の団体の集まりだった。傷痍軍人が街頭募金する光景をドラマなどで目にしたことがある人は多いだろうが、水木たちはその走りだった。 仲間たち7人で街頭募金や行政が所有するビルの占有をするなどして日銭を稼いでいると、仲間内で魚屋を始めたらどうかという話になった。当時、魚は配給制だった。魚屋の免許さえもてば後は週に1回の配給日に魚を配ればいいだけだとそそのかされる。 とはいえ、隻腕の身。魚はさばけないとためらっていると、誰かに手伝ってもらえばいいからと押し切られ、学生兼魚屋になってしまう。今ならば若手実業家ともいえる身分に期せずしてなったが、本人はあまり乗り気ではない。儲かっていないわけではないが、うまくいっているともいえない。

■ゲゲゲには描かれない水木の才覚

実際、この頃は魚屋で身を立てていたというよりも毎日パチンコ屋に通い、1日の糧を得ていた。とはいえ、魚屋の仕事はあるし、大学にも通って病院にも行き、パチンコで稼ぐには忙しすぎた。結局、店を手伝ってくれていた友人に魚屋の権利を4万円で売る。 隻腕の体でできて、忙しくない仕事はないかと探し、魚屋を売ったカネで今度はリンタク屋を始める。リンタクとは今となっては聞き慣れない言葉だが、自転車に客席を取り付けた営業用の三輪車だ。今でも東南アジアの一部では健在の乗り物である。ガソリン不足や、自転車の改造にわずかな費用しかかからない背景もあり、戦後すぐに爆発的に普及した。 水木はリンタクを2万円で買うと、自分では引かずに1日500円で人に貸した。それならば昼まで寝ていて、パチンコで稼ぎ、学校にも行ける。毎日、寝ているだけで、500円の定期収入があるから、貯めておけば1カ月半に1台新しいリンタクも増え、さらに稼げるようになる。風貌からは想像もつかないが、ビジネスの才覚にうならされる。 そうこう食いつないでいると、しばらくして傷痍軍人の仲間から募金活動で地方を行脚しないかと誘われる。「地方は東京より人情があふれている。優しい人が多いから募金活動すればガッポガッポだよ」。

■人生を変えた帰省

その頃、水木は学校で衝撃的な発言を聞いていた。「絵描きになるには1000万円ないと生きていけないよ」。つまり、資産家の子どもでもなければ目指すものではない。水木がそれを聞いて、ゲゲゲと驚いたかは知らないが、絵描きとは昔からそういう職業だった。 「絵描きは無理かもしれないが、好きなことをして生きていくには金が必要だ」と改めて実感する。「これは金をもっと稼がないと」と東海道募金旅行に出かけるが、今も昔も都心よりも地方が人情味にあふれているということはない。「裸の大将」や「男はつらいよ」の見過ぎである。傷痍軍人に同情してカネを落とすかどうかは場所の問題でなく、属人的な問題だ。 実際、小田原で成功した以外は大きな収穫はなく、旅費だけが重くのしかかるようになるのに時間はかからなかった。 結局、旅費が手元にある内に東京に帰り、身辺整理を始めた。授業料は滞納しがちで、友人から服地のヤミ商売をやらないかという誘いもあったが、手持ちの10万円を持って郷里に帰ることにした。この決断が水木の運命を大きく変える。

■「水木荘」との出会い

昭和25年1950年)、帰郷の途中に泊まった、神戸の宿の女将が20万円でその宿を買わないかといってきた。15、16部屋あり、一生寝て暮らせるのではと夢は膨らむ。 その宿には100万円の借金があり、引き継ぐのが条件だったが、それは月賦でいいとなり、「それならば」と、父親に無心するなどしてカネをかき集め、思わぬ形で不動産賃貸業を始めることになる。このアパートは兵庫区水木通にあったため「水木荘」と名付けられた。 お気づきだろうが、これが後に「水木しげる」のペンネームになる。水木しげるマンガ家人生はここで始まる。 水木は紙芝居を皮切りに貸本漫画、マンガ雑誌と描く媒体を変えながら激動する時代を生き抜くが、水木荘の住人が彼を紙芝居の世界に誘った。 偶然にも紙芝居画家が入居してきて、彼の紹介で紙芝居の仕事を受けるようになる。賃貸収入と紙芝居の二本立てでラクして暮らす生活。絵描きではないが絵に関わる仕事ができる。それも、カネの心配をせずに。 令和の時代からみても夢のような暮らしだが、3年ほどでその計画は実現することなく頓挫する。紙芝居業界は重労働で低賃金。おまけに画料をまともに払ってもらえないこともしばしばあったため、借金は一向に減らない。

■バナナで食いつなぐ日々

結局、「アパートを売って、借金を払ったらどうですか」という借金取りの案に乗る。水木荘を売却し、西宮の今津に家を買い、引っ越す(そこでは1階をパチンコ屋に貸していた)。『墓場の鬼太郎』も『河童の三平』もこの頃にすでに描いていたが全くウケなかった。 話の中身やキャラクター設定の問題以前に、朝鮮戦争による特需やテレビの登場など時代の大きな変化もあり、紙芝居業界全体がダメになっていた。その後、昭和32年1957年)に背水の陣で再び上京して貸本漫画家に転じるが、相変わらず生活は苦しかったことを水木は述懐している。
原稿料も零細で、それも手に入る前は絶食状態でした。出前をとって居留守を使ったり、腐りかけたバナナを一山いくらで買って飢えをしのいだりもしました。貸本漫画も大手出版社の漫画雑誌が出てきて消えてしまう。世の中が豊かになって借りるより買う時代になったんですね。[『日本経済新聞1995年8月17日付夕刊五面] 水木が食うや食わずの最底辺の世界を脱し、人並みの暮らしが出来るようになるのは昭和40年1965年)、『少年マガジン』からの注文で「テレビくん」を描き、講談社の漫画部門賞を受賞して以降だ。売れない貸本漫画家と定評があっただけに「何を考えたのか『少年マガジン』が連載を言ってきた」(「わが狂乱怒濤時代」『別冊新評』1980年10月)と当時の驚きを振り返っている。

■売れっ子になっても徹夜をしなかったワケ

水木荘を買い取ってから15年、43歳の遅咲きのデビューだった。 水木の世代は戦争が強烈な体験になっていたのは間違いない。特に水木は片腕を失い、文字通り生きるか死ぬかの最前線にいただけに復員後はぶれない軸があった。 「『これからの人生は好きなことやって死のう』と思った。好きなことといっても遊びではない。興味があって、しかも生活できるものでなくてはいけない」(同前) 元来の好きなことしか続かない性格を無理に変えずに生きていこうとの決意がうかがえる。楽しいことをしてラクして、寝たいだけ寝て暮らす。この精神はリンタク、アパート経営、漫画全てに通じる。やれそうならやって、ダメになったらやめる。 魚屋がダメならリンタクに、紙芝居がダメなら貸本に。固執せずに軽やかに生きた。 水木は売れっ子漫画家になっても徹夜を殆どしなかったことは有名だ。手塚治虫石ノ森章太郎も同時代の売れっ子は2日も3日も徹夜して、そのままパーティーに出たが、眠りに弱い水木には信じられなかった。

■あなたの横にもいる妖怪

徹夜は週に1度がやっとで、徹夜した翌日は10時間以上寝たというから、徹夜の意味があまりない。水木の壮年期は食うためにはなんでもやった時代で、特に戦後すぐは正業も副業もない時代だった。今とはあまりにも時代背景も違うが水木はこう諭す。
サラリーマンの大半は、幸福になる努力が足りない。まずにおいをかいで、幸せの方向をちゃんとつかんで、階段を上がるようにしないといかんです。幸せにつながらない階段を上がっちゃだめですよ。もっとも、そうしたいと思っても無理、という立場の人もおるでしょうね。かわいそうだけど、それはしかたない。 ところが、幸福のためには全く役に立たないことをやってて疑問を感じない人たちもたくさんいる。これは一種の妖怪ですよ。[『読売新聞』2004年10月5日付朝刊一五面] 果たして、あなたは妖怪になっていないだろうか。 (初公開日:2025年2月16日) ----------
栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。 ----------
水木しげるさん=2013年2月28日、東京都調布市の水木プロダクション - 写真=共同通信社


(出典 news.nicovideo.jp)