「筆算問題の定規ルールはなぜ必要なのか?」―教員の視点から考える
「筆算問題に定規を使うことは必ずしも正確な解答を導くためのルールではありませんが、子供たちの計算力と正確性を身につけるための指導方法です。子供たちには正確な計算手順や数字の配置方法を理解することが重要であり、定規を使うことでそれをサポートしています。」
小学校算数の筆算の計算時に定規を使う指導をする教員は少なくない。これにナンセンスとの批判の声も出ているが、小学校教員の松尾英明さんは「筆算を含め算数のノートをきれいに書くべきか否かは教員の間でも何十年も前から議論が分かれているが、筆算時の定規の使用には一定の教育効果がある」という――。
■「筆算では必ず定規で線を引かせる」に噛みつく人
「算数の筆算では必ず定規で線を引かせる」 小学校でそんな指導方針をとっている教員は少なくない。例えば、筆算で上段に「49」、下段に「16」と書いて、足し算する。その答えを書くときに16の下に引く横線。これをしっかり定規を当てて引く。 この指導に対し、「フリーハンドでビーッと引けばいいだけ。実際、自分の子供時代はそうしていた。定規必須なんてナンセンスだ」といった批判的な意見が数多く寄せられている。学校の「謎ルール」の一つとして批判の的にもなっている。細かい校則や、学期ごとに机用などの雑巾を各家庭が持っていくとか、週末ごとに上履きを持ち帰って洗わなければいけないとか、日本の学校に蔓延するそうしたヘンなしきたりだというのだ。 一方で、「筆算は必ず定規」には全く頓着しないという教員もいる。こちらは自由で良さそうだが、ここに対しては「ノートが雑で汚い」「ノートは丁寧に書くよう指導しておいてもらわないと、のちのち困る」という保護者や教員の声も出る。 どうして意見が割れるのか。 学校の「謎ルール」はなぜなくならないのか、また、本当にそれは「謎ルール」なのか。 本稿では、現場のリアルな感触からその実像を分析し、お伝えしていく。■「ノートをきれいに書くべきvs書く必要はない」論争
そもそも、筆算を含め算数のノートをきれいに書くべきか否か。実はこれは、何十年も前から議論が分かれているところである。 「きれいに書くべき」派は、ノートは思考を整理する場であり、当然整っているほうがよいという考えである。ふだんから雑に書いていると、テストでも雑に書くことにつながり、困ったことになると考える。 例えば「0」なのか「6」なのか判別がつかない数字を書くことで、計算ミスを誘発する。 漢字テストなどの場合はもっと顕著で、重要ポイントが判別できないとなると当然×である。 汚く書くことでミスが起きるため、それを防ぐために丁寧に書くべきという論理である。 これは「教員が黒板に書いたものを丁寧に写す」という行為とも間接的につながる。 一方で「ノートをきれいに書く必要はない」派の主張も根強い。これは「ノートというものは本人が学ぶためにあるもので、他人に見せるためにきれいに作るものではない」という考えである。 こちらの方が「リベラル」な感覚の人には好まれる。また人によっては書くスピードが思考スピードに追いつかず、もたつくというのである。さらに先の「黒板を写す」という行為にも批判的で「無思考で写すことで、考えない子どもが育つ」という主張にもつながる。 果たして、どちらの主張が正しいのか。 これについては「相手と場合による」という回答になるかもしれない。「これだけが絶対正しい」という答えはない。 以下、ノートの丁寧さよりもさらに限定的な「筆算時の定規の使用」を例に挙げてその理由について述べる。■手をゆっくり動かせて計算が苦手な子のミスを防ぐ
実際、筆算時の定規の使用には、一定の教育効果がある。 まず、当たり前だが、桁が揃いやすくなる。ある程度計算が得意な子には必要ないことなのだが、一方で、指導に苦労する子どもたちは、筆算の位を揃えることがまず難しいのである。 線が曲がっていると、さらに桁がずれやすくなる。特にテスト時のように真っ白な紙に書く場合は、桁がずれやすい。根本的には、運筆時の微細運動の苦手さと粗雑さが合わさって、計算ミス連発、ひいては算数そのものの苦手意識へとつながっている。筆算に定規はそれを防ぐための有効な手だての一つなのである。 ただ、小学校では普段からマス目の入ったノートを使用しているため、マス目にきちんと数字をおさめて書ける子どもにとっては、特段必要ないともいえる。またワークテストでも「ユニバーサルデザイン」の考えでマス目が入っていることがある。 加えて、定規を使うことは手の動きを「ゆっくりにする」というブレーキ効果がある。「スピード重視」の主張とは真逆で、あえてゆっくりすることでうっかりミスを防ぐという手段にもなる。 ここまで読んで「その通りだ」と思った人もいれば「自分(あるいはわが子)には全く必要ない」と感じた人もいるはずである。 ここがポイントである。 学校の教室というのは、本当に「多様」な実態の人間が集まった場である。個々の子どもを見れば、その興味も理解力も行動特性も価値観も何もかもが全く違っている。それらの多様な子どもの集団に対し、教員が一人で指導をするというのが教室という場である。 教室には、突出して理解が早い子どもが1割程度存在するのに対し、ものすごく理解が難しいという子どもが2割程度いるというのが平均的なところである。「平均的」と表現したのは、それが全く当てはまらない集団の場合もありうるからである。 だからどの集団に対しても絶対的な最適解が存在しないのと同様、「最適解」が集団の個に対して一つに定まるということはない。 しかしその前提の上で、指導する時にはとにもかくにもとりあえずの「正解」を示すというのが教える者の仕事でもある。たとえ心の中で「違う考え方も存在する」ことを認めながらも、である。 だから「筆算時には定規を使います」という指導は、ありうる。一方で、その必要がない子どももいるというのが事実である。■定規の使用は「スタンダード」だが「強制」ではない
そう考えると、定規の使用を「スタンダード」として示す上で、後は個人の選択とするというのが現実的な手段である。安全・安心に関係する事柄でない以上、「強制」するほどのことではないといえる。 私は拙著『不親切教師のススメ』(さくら社)で、「背の低い順で並ぶのは差別」などこれまでの学校の常識を問い直す意見を書いた。その影響か、ネットやテレビ番組などで批判されたり、「頭がおかしい」と誹謗(ひぼう)中傷されたりすることもある。だが、そうした一定程度のネガティブな反応はしかたないのかもしれない。なぜなら、記事や書籍などを通じて私は「私」としてはっきり「主張」しているからである。 一つの主張には、必ず反論が出る。陰と陽はセットであり、一方の存在により他方が存在できるからである。つまり、「そうかも」と無意識下で思っていることほど、反論せずにはいられない気にさせてしまう作用がある。 だから、たかが「筆算に定規を使うべきか否か」というような主張にも、永遠に決着がつかない。こんなことが、「多様性の尊重の話」にも通ずる。 「多様性を尊重する」と主張するということは、「多様性を尊重しない」という考えも尊重しなくてはならず、互いが必ず対立する構造をもっている。多様性については、互いの存在の尊重しかないのである。 結論、当たり前に思っていることにも、議論が必要ということである。そして、声や権力の大きい者や世間の批判にあっさり引き下がるのではなく、自分の考える正しさを言語化して伝えること。 定規の使用一つをとっても、その議論が必要だと思えば学校や先生と議論すべきであるし、自分は従った方がよいと思えば従えばいい話である。年齢や立場の如何を問わず、この姿勢が必要ではないかということの一つの主張である。 ----------松尾 英明(まつお・ひであき)
公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。 ----------

(出典 news.nicovideo.jp)
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